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歴史

歴史

20. május 01. 10:34 péntek

エステルゴム周辺には先史時代から人が住んでいたことが考古学的に発見されています。ケルト人、ローマ人、アヴァール人が王宮の丘とその周辺を住居として選びました。 クワッドと戦った哲学者の皇帝マルクス・アウレリウスは、エステルゴムの向かいにあるドナウ川に流れ込むガラム川沿いで著作の自省録の一部を書きました。

10世紀、ゲーザ大公はローマ時代の要塞だった場所に残る遺跡を土台に住居を設け、統治の拠点を築きました。伝説によると、息子ヴァイクはここで生まれ、洗礼でイシュトヴァーンの名を受け、後にここで新しい国王として戴冠します。そしてエステルゴムは国家の中心となりました。

イシュトヴァーンによって形成されたエステルゴム教区の教会組織は、他の教区に比べ際立つ存在にあり、当初から大司教座として歴代の国王の戴冠式を行う特権を持つ場所となりました。イシュトヴァーンは、王宮の丘に国の最大規模の大聖堂を建て、その守護聖人は聖アダルベルトとなりました。

その後この周辺には、主に長距離貿易に従事する、裕福な外国人貿易商が住むようになりました。12世紀当時に貿易商が使用した印章の進化したものが、今日でも紋章として使用されています。ベーラ三世の時代に王宮は大幅に建て替えられ、フランスから来た芸術家や煉瓦工も改築に携わりました。今日でも訪れることができる王宮の礼拝堂はフランス人職人の仕事の賜物です。

蒙古軍の襲来では、王宮の制覇には至らなかったものの、激しい戦いにより城下町の大部分は破壊され、王室を移転することになりました。当時の国王ベーラ四世は、1256年にエステルゴム王宮を大司教にまかせ、市民には新たな街を建てることを許しました。こうして王室はエステルゴムを離れましたが、ベーラ四世は死後、エステルゴムのフランシスコ会教会に葬られました。

その後も様々な大司教たちが王宮地区を建設し、エステルゴムは拡大を続けました。マーチャーシュ王の教育者であったヴィテーズ・ヤーノシュ氏は、壮大なルネッサンス様式の宮廷を建設しました。巨大な図書館、展望台を設け、イタリアからは複数の著名な芸術家や科学者がやって来ました。バコーツ・タマーシュ大司教のユニークなルネッサンス様式の埋葬礼拝堂は500年経った現在でも見ることができます。

街の発展に大きな打撃を与えたのは、モハーチの戦いでサルカイ・ラースロー大司教が死亡したという事実でした。その後の時代、エステルゴムの統率者は何度も代わり、フェルディナンド1世とサポヤイ・ヤーノシュ1世の間で何度も主権が変更しました。オスマントルコ軍の征服の関係で大司教区と支部は現在のトルナヴァ(旧名:ナジソンバト)とブラチスラヴァに移り、おかげで主教座の資料館と大聖堂の宝物庫は破損を免れました。 

エステルゴムの王宮は1543年にトルコの手に落ち、オスマン帝国の象徴的な要塞となりました。トルコの世界旅行家、エヴリヤ・チェレビの著書によってその当時の様子が残されています。 モスク、浴場、要塞など、征服時の建築物は、特殊な時代を物語っています。15年間の戦争でエステルゴム市は取り戻され、10年間ハンガリーの手中にありましたが、本格的にキリスト教信者の手に戻ったのは、1683年のパルカーニュの戦いが終わるときでした。

衰退していたエステルゴムは、1708年に自由都市の地位を取り戻しました。 街の再建が始まり、王宮は大司教区に復元され、主教座の引越しの計画があがりました。しかし、1820年、ルドナイ・シャーンドル大司教の任命が決まるまでは実現しませんでした。こうして、王宮の丘の復元と大聖堂の大幅な建設にかかる47年が始まりました。

ハンガリーで3番目の公立博物館、キリスト教博物館は、シモル・ヤーノシュ司教によって、1875年に開きました。同じ場所に1881年にハンガリー赤十字が設立されました。

ドナウ川初の鉄橋が建設されたのは1895年です。こうしてエステルゴム市は鉄道網に接続され、近隣の村、セントタマーシュ、セントジョージメズーとヴィジヴァ-ロシュがエステルゴム市の一部となりました。 第一次世界大戦後、郡庁所在地のエリアのほとんどが戦災に遭い、大司教区は教区の大部分を失いました。

その後、エステルゴムは1912年にオープンした屋外温泉を基に、温泉街としての地位を再確立しました。 世界的に有名な写真家アンドレ・ケルテスの写真「Floating Underwater」などは、1917年にここで撮影されました。

1938年の聖イシュトヴァーン記念年では、エステルゴム市は中心地の一つに選ばれ、その準備に伴いアルパード時代の王宮の遺跡が新しく発掘され国民の注目を集めました。

第二次世界大戦中、エステルゴム市は大きな被害を受けました。爆破により破壊されたドナウ橋は、何十年もの間、復元されずに傷を負ったままでした。1973年、エステルゴムは1000周年を迎え、大規模なイベントを開催しました。

ここ数十年間でエステルゴムは学校都市に成長し、政治的な改革後、スズキの工場とそのサプライヤー企業の工場が設立され、自動車産業の中心地になりました。ドナウ川の マリアヴァレリア歩道橋は2001年に再建され、こうしてドナウ川の両側の二つの姉妹都市は新たにつながりました。

欧州連合加盟後、ハンガリーはシェンゲン協定地域に2007年12月21日加盟。その時に国境管理は完全に廃止され、巨大な式典が行われました。

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